まこっち様という謎の人物から電気ブランを頂いた。
四年前、とある小説に触発されてから、飲んでみたいと思ってはいた。
しかし、俺には行動力というものがまるで欠如しており、
自分から取り寄せてみるでもなく、バーに出掛けるでもない。
阿呆のように飲んでみたいなあと掲示板に書き込むだけであった。
贈って頂かなければ一生飲むことはなかったであろう。>まこっち様感謝
スベスベした瓶が飴色の電気ブランに合っている。
アルコール度数は40度。
40度となると、大抵は割って飲んだりするものだが、冷やしてストレートで飲むのが推奨っぽい。
ブランデーならストレートで飲むのは当たり前なのか?とも思ったが、
wikipediaを見たところ、
>発売当初は「電氣ブランデー」という名で、
>その後「ブランデー」ではないことから現在の商標に改められた。
とか書いてあって。うけるー。
ひとしきり笑ったところで飲んでみた。

甘い!
電気ブランという名前から、勝手に辛いものを想像していたが、電気ブランも俺の考えも甘かった。
甘いにも関わらず口の中はビリビリする。まあ40度だしね。
もっとも、「電気」というのは当時モダァンな言葉であったから付けられただけであって、
口の中が痺れるから電気ブランというわけではないそうだ。
確かに、さほどエレクトリカルパレードな味ではない。
何かの草?の味もするので、清涼感がある。
身も蓋もない言い方をすれば
のど飴をお酒にしたような味ですね。

気になる人は自分で飲んでみて欲しい。
俺の中では、のど飴ということで結論出ました。
では、そもそもなぜ俺は電気ブランを飲んでみたいと思ったのか?
冒頭にも書いた通り、ある小説に触発されたからである。
電気ブランで小説と聞けば、太宰治を連想する人が多いと思う。
かの有名な『人間失格』の中に、
>酔いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはないと保証し
という一文があるらしい。
確かに、甘くて度数の割にするする飲めるので、かなり早く酔いが回る。
久しく酩酊感を味わっていなかったため、非常に満足できた。
なんだか最近、ビールやワインを飲んだところで全く酔えない。
ウィスキーを水と1:1で割って飲んでも酔えない。
かといってストレートで飲むとむせる。
そこへ来て電気ブランの酩酊感は素晴らしい。
炭酸は酔いを促進するというから、今度はジンジャーエールかソーダで割って飲んでみよう。
話が逸れたが、俺は別に太宰治に触発されたわけではない。
『人間失格』は読んだはずなのだが、電気ブランが出てきたことなど全く憶えていなかった。
太宰治で酒といったら、『斜陽』のイメージが強い。
「ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ」
という謎のコールと共に酒を呷るキチガイ達が出てくることもさることながら、
弟の遺書に出てくる「いつも、くらくら目まいをしていなければならなかった」という文言。
これぞ自分が酒に求めているものである。永遠に酔っていられたらどれだけ幸せだろう。
最近酔えなくなってきたと書いたが、それは「くらくら目まい」がしなくなってしまったということなのだ。
気持ち悪くなったり、足元がふらついたりはするのだが、意識だけははっきりとしたまま。
何もかもどうでもよくなるような夢見心地の酩酊を味わえないのであれば、ジュースで充分。
また話が逸れた。
太宰治は天才だという。なぜか?
同時代以前の多くの作家は、海外の文学や宗教の知識をバックボーンとして備えており、
それらを日本に輸入することによって評価を得ていた。
対して、太宰はそういった背景を抜きにして、感性のみによって脚光を浴びたから天才なのだ。
そういう話を聞いたことがあるが、本当かどうかは分からぬ。俺には文学が分からぬ。
ただ一つ分かるのは、彼の小説はアルコール臭くないということだ。
森見登美彦という作家がいる。
彼の小説はとても酒臭い。物語によく酒が登場するだけではない。
全体を通して、その独特な文体から、酒気がむんむんと漂ってくるのだ。
最初はそれが心地よく、四作も五作も連続で読んでいると厭になってくる辺り、まさにアルコール。
電気ブランを飲んでみたいと思ったのも、彼の影響である。
正確には、森見登美彦の影響を受けた素人の影響なのだが、森見登美彦の影響ということにしておこう。
彼の小説は京都が舞台となっているものが多い。
そのため、電気ブランは浅草のお酒であるにも関わらず、自分の中では完全に京都のイメージである。
ただの京都ではない。想像上の京都だ。
思うに、森見登美彦の小説を読んでから初めて京都へ行った人は、少しがっかりするのではないか。
それだけ、彼の見ている京都は独特なのである。
全くの別世界というわけでもない。あくまで現実の延長というか。
何と表現すれば良いのだろう。
古い本の余白に書かれた落書きのような想像力なのだ。
貶しているわけではない。
余白の落書きに人々の浪漫をかき立てる不思議な魅力があることは、某数学者が証明した通りである。
ここだけの話と言われたときの胡散臭さにも似ている。
日常のすぐ隣にある非日常を自分だけが目撃しているような孤立感。
かなり売れている本なのに、誰ともその物語を共有できないような錯覚を起こす話って、あると思う。
電気ブランののど飴っぽさは、そうした雰囲気に合っている気がしないでもない。
ここまで書いておいて何だが、森見登美彦の小説に登場するのは電気ブランではない。
「偽電気ブラン」なのである。
しかし、そのようなものは実在しないから、せめて電気ブランを飲んでみたいと言っていたのだ。
ところが、某掲示板にこのような書き込みが。
>市販の電気ブランと神谷Barの電気ブランは違う。
つまり、これはもう念願の偽電気ブランを手に入れたと言って良いだろう。
やったね!
1. 無題
のど飴の味の酒で把握しました。